首里の丘へ想いを寄せて
- Kazeyoshi Uno
- 2019年11月3日
- 読了時間: 5分
更新日:2020年5月8日

僕が初めて沖縄を訪れた時、
今回の火災で焼失した形の首里城も首里城公園もまだ完成していなかった。ゆいレール(モノレール)もまだなかった。
照明家の先輩の仕事に同行して、初めて降り立った沖縄空港の空気、風、日差し、全てが外国のように感じたのを憶えている。
そして右も左もわからない我々2人は、仕事の合間の少ない自由時間にタクシーを貸し切ってガイドしてもらった。
その時、タクシーの運転手が1975年の火炎瓶事件(ひめゆりの塔事件)の事も話してくれたりして、その話の流れから、僕の沖縄初訪問は1988年だったのだと思い出した。
その後、
何のご縁が、沖縄の知り合いがポツリ、ポツリと出来、
東日本大震災の後、関東からの移住先に沖縄の地を選んだ友だちも増えたから、住んだことはないのにかなり知り合いの多い県となった。
僕の1回目の沖縄訪問から2度目まではかなり時間が開いて、2002年(思えば90年代には足を運んでいない)。
やはり、演劇の仕事だったが、今度はフリーの照明家として、後輩を連れて。
その時には、すでに首里城公園もモノレールもあって、空港の雰囲気もすぐに馴染めた。
ローソン(那覇市内にはローソンも三越デパートもタワーレコードもあった)でお弁当を買ってレジに行くと、
店員の男の人が、
「お弁当、あっためましょうね」
と優しく語りかけてくれて、感動で胸の中までとても温かくなった。
コンビニで感動するなんて、ちょっと素晴らしいじゃないか、と思った。
「お弁当、温めますか?」
ではなくて、
当時の僕の、いかにもプライベートタイムではない、仕事中な雰囲気を察してなのか、
「あっためましょうね」
と、人ごとではなくまるで友だちを気遣うように親しくも優しくさり気なく言ってくれた親ほどの年齢の店員さん。
これが沖縄なんだ、これがウチナンチュなんだと噛み締めて、
首里城よりも高い建築物を認めない沖縄の文化、先祖との繋がり、魂や目に見えないものとの繋がりを、大切に敬い、暮らしの日常にしている民族性に心底素晴らしいと思った。
以来、
ライブ・ツアー(かなり小規模なミニツアーでした)や、辺野古や高江の座り込みも含め、
何だかんだこれまでに憶えているだけでも沖縄には12~3回は訪れた。
そして、以来、ほぼ毎回、首里城には足を向けている。
必ず行く!と決めている訳では決してない。しかし、なんとなく毎回、ふら~っと誘われる、そういう流れになってしまうのだ。
毎回、あの空間を味わい、沖縄の歴史が詰まった資料を見聞きし、触れて、
思い起こすもの、はじめて知るもの、我に対峙し思い知る歴史。尊く果てしない、人々の営み。
翻弄され、押し付けられ、騙され、乗っ取られ、見捨てられ、
しかし、どんな境遇にあっても、卑屈にならず、誇りと尊厳を持ち、気高く真摯に、神とともに生きる。
蜘蛛が、何度壊されても黙々と蜘蛛の巣を作るように、
何度壊されても、歌い踊りながら、楽園を作り目指すことをやめない魂人。
力強くも優しくて、慈悲深くてしなやかな、沖縄の人々の愛の心を学ぶたび、我が身を振り返り、敬意を抱いて沖縄という島の大地を踏みしめた。
僕が最後に沖縄を訪れてから、つまりあの朱色のグスクを訪れてから、早6年。
実は、
僕も3.11の後、移住先を決めるときに沖縄のことはもちろん考えた。
基地の問題やそこからつながってくる海や山の環境保全の話、雇用の問題。
何より、
琉球の素晴らしい叡智と思想。
しかし、僕の射手座O型的な性質を考えると、
一年中温かく、四季変化の淡い島国では、己の精神の弱さが災いして人間がダメになるだろう、と言い聞かせてあきらめた。移住先の対象から外すことにした。
冬の、真っ白で透明な、キンと冷たい世界。
夏の、青く赤くじわじわと揺らめく熱波の世界。
春の、寝ぼけて宙に浮いたような淡いパステルの世界。
秋の、何か大きな決心を迫るような、暖色の森の鮮やかな彩の世界。
激しいくらいに90度ずつ容姿を変えて行く四季の中で生きること、それを味わい感じながらでなければ、つまり外的環境に刺激されながらでなければ、この甘ったれな自分は成長できない。
それが分かっていたから。
今からならどうかな?
もっと違う捉え方が出来るかも知れない。
現に、一所を終の住処のような感覚で住むことは、今の僕の感覚には無いだろうから。
家具や大きな荷物は、持ちたくないし、まして家も。所有したくない訳ではないが、執着したくない。
何かあった時には、さっと、リュックを背負ってノマドになれる。
ヤドカリが纏った殻を捨てて行くように。
そんな暮らし方が理想だと思う。
この、これからの地球を生き抜くのなら。
大地は全てを恵んでくれると、
もう、知っているから。
水を濁らす、土を汚す、自分の生きている環境を穢し、再生不能にしながら生きている生き物は、人間だけ。
僕は、だからもう、
何処にだって行けるし
何処にだって住める。
燃え落ちた首里城からいろんなことを考えた。
不謹慎だが、崩壊と再建を繰り返してきた首里城の歴史がお伊勢さんの式年遷宮にも重なって思えた。
首里のあの丘は、神に一番近い場所で祈りの場所だと聞いてきた。
僕の頭の中では、それがせめてもの救い。
今年の1月に全ての復元作業を終えたばかりだったという、
流れてくる焼け跡の画像を見るにつけ、
またしても焼失だなんて、悪い夢を見ているよう。
世界遺産だろうと積み木の家だろうと、
形あるものはいずれ消えてなくなる。
そのことを、
もっと、深く、考えてみたほうがいい。
そんなことを、学んでいます。
痛みとともに。
儚さとともに。
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